今回は西武ライオンズやヤクルトスワローズで活躍した鈴木健さんを紹介します。
鈴木健さんんは1997年、1998年のリーグ連覇時の4番打者で、2000年前後はライオンズで貴重な長打を打てる中距離ヒッターとして活躍し、ヤクルトでもベテラン中距離ヒッターとして活躍しました。
鈴木健さんは1987年に浦和学院高校からライオンズにドラフト1位で入団、当時高校通算本塁打記録83本を放っての入団でした。
当時のライオンズは清原和博さん、秋山幸二さんらが全盛期の黄金時代。鈴木健さんは2年目まで1軍出場はなく、3年目の1軍初出場から6年目までは1軍2軍を行ったり来たりをしていました。
7年目の1993年からDHで準レギュラーとして1軍に定着し100試合以上に出場、9年目の1995年からサードのレギュラーとなり初の規定打席に到達しています。
その後は打率3割、本塁打20本前後は期待できるバッターとなりクリーンアップに定着しています。
2000年頃から成績が低迷し、2002年には65試合出場に留まってオフにはヤクルトへ移籍します。
ヤクルトではサードに岩村明憲さんがいたためバックアップ要員として当初は期待されていましたが、岩村さんの怪我による長期離脱でサードのポジションを確保。この年は打率3割1分7厘、本塁打20本、95打点と全盛期のような成績を残します。
次の年はファーストに転向して前年より成績を落としていますが、中心打者として2年連続規定打席に到達しています。
2005年からは故障や外国人打者の台頭で出場機会を減らし、代打としての出場が増えていきます。
2007年に引退となりますが、鈴木健さんの引退試合は感動の名場面として多くの野球ファンに知られています。
2007年10月4日の横浜ベイスターズ戦が引退試合となります。
8回裏1死で代打として出場し、相手投手の横山道哉さんは全球ストレート勝負。なかなか前に飛ばず、10球を超えたあたりで打球はサード方向のファウルゾーンにフライが上がります。
サードの村田修一さんはフライを追いかけますが、捕球範囲に入る直前に打球を見送り、わざと捕りませんでした。その後15球目にセンター前に打球を運び、最終打席はヒットで終えることが出来ました。
引退後は野球解説者として活躍しています。いつかはまたライオンズのユニフォームを着て現場復帰する鈴木健さんの姿を見てみたいです。
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